−17− |
帝が御座する清涼殿の後方には、数多の后妃、女御らが居する七殿五舎が建ち並び、中程に位置する常寧殿を囲むように、それぞれの殿舎は渡廊や細殿で結ばれている。 その常寧殿と宣耀殿を結ぶ透廊は、優雅な円弧を描く反橋である。 橋の下を流れる山のせせらぎを思わせる清水の流れは、よくよく吟味されたのであろう、趣のある大小のさまざまな石が、見事なまでに調和し配されており、その程好く苔生す様は、自然よりも尚、自然に見える見事なまでの造形である。 その周りに生える下草にも、細やかに行き届いた手入れの跡が覗え、その間に間に、淡い紅紫や真白い秋牡丹が、今を盛りに八重の花を大きく咲かせば、淡紫の神楽草や黄色い石蕗が小さな可憐な花を覗かせる。 そして・・・、 ”きらきら”と光る水面を擦るように飛交う真紅の秋茜の小さな群れが、尚も目に痛いほどの鮮やかな彩を添える―――。 「これは・・・」 その風情を楽しむかのようなゆったりとした足取りが、麗景殿から宣耀殿へと続く切馬道あたりで、”ふ”と止まると、目の前の反橋を渡る姿に、 佐為は―――、 ―――いつもの優美な笑顔を向けた。 陽も真上に、昼も過ぎると、広大な内裏の中は、あれほど忙しげに行き交っていた公卿や殿上人たちの姿も疎らになり、目にする人の姿はほとんどない。 大内裏で働く無位無官の官吏ならいざ知らず、辰の一刻頃から巳の刻頃まで、閣議や式次第などの政務をこなせば、高級官僚たちはお役御免なのである。 今頃、二条の大通りは、妻や妾、恋人の所に通う男たちの牛車で溢れ、大賑わいのはずである。 そんな喧騒も、この内裏まで聞こえてくることは無く、静かな邸中には、のんびりと行き交う女官や女房たちの姿を、時折見かけるくらいなものである。 そんな昼下がり―――。 その反橋を渡りかけた時から、付き従う女蔵人らが、「あら、嫌だ。」、「どうしましょう。」などと、その物言いとは裏腹に、どこかときめくようにさざめきだしたのは、その前を行く竹生命婦が、向かいの殿舎の回廊を、ゆったりと歩く黒い衣冠姿を見止めたのと、ほぼ同時であった。 その向けられた優美な笑顔に応えるように、 ―――命婦殿は、 こちらも優艶とも言える美しい笑みを浮かべた。 「これは、また見事な萩を。」 目の前の宣耀殿の塗籠の角を曲がり、間近に近づく黄菊の小袿姿に、佐為が”ふわり”と顔を綻ばせると、 「それが久方ぶりに出会った女へ掛ける言葉か?」 呆れたように柳眉を上げて、眩しげに目を細め、竹生命婦は”くすくす”と笑い出した。 その少し離れぎみの”ぱっちり”とした目元が、誰が見ても美人と言える容顔に、好い加減で愛嬌を持たせ、それはそれで、かなり男好きのする顔立ちにしており、黄蘗と萌黄、深緋を重ねた袿の上に、黄菊の唐綺を纏った、今様の少し派手とも映る色合わせが、知性を備えた艶やかな容色を、華やかに引き立てている。 この竹生命婦殿、登華殿の女御に仕える中臈女房で、男に関しては、かなり放埓な方である。 一夜に男二人を手玉に取ることなど造作もなく、共寝をしていた男に突然、「所用を思い出した。寝ないで待っていてね。」などと言っては、”ふらり”と出て行った後、他の男と一夜を過ごし、明け方近くに戻ってきて、”悶々”と寝ずに待つ男に、「ごめんね。眠くはありませんか。」などと、しゃあしゃあと言ってのける、なんてことは日常茶飯事と言う、かなりの強者である。 先日も、その所行に腹を立てた兵部大輔に、当て擦りめいた歌まで詠まれ、その噂話で宮中は大盛り上がりだったのだが、これまたその歌が評判を呼び、さらにこの局に通う男が増えたと言うのだから、大輔殿の渋面が目に浮かぶようである。 とは言え、美人でなかなか気も利いて、男に手馴れたこの女房殿を、結構佐為は気に入っているのだ。 だから、誘われるまま、この人の局に何度か通ってもいるのである。 幸いなことに、と言うべきか、今のところ一度もすっぽかされたことはないが、何やかやでこのところ、この方の所へ出向いていなかったな、などと、言われて初めて気付いたりするのだが、恐らくは、命婦殿の方も、同じようなもので、久方ぶりに佐為に出会って、近頃間遠くなっていたことを、”ふと”思い出した、と言ったところなのであろう。 「これはしたり・・・。凛々と艶めきたてる女郎花の美しさは、ことさら言うに及びなく、約まりて垂れる萩の可憐さに、つい口を衝いてしまった。」 そう答えると、その言い様とは裏腹に、さして悪怯れる風もなく、煙りたつ目を細め、佐為はさも可笑しげに微笑んだ。 佐為が命婦殿の気褄一つ問わず、思わずその美しさを口にしたのは無理もなく、命婦殿から少し離れ、廊の端に”つらり”と居並ぶ蔵人らが、抱くようにかかえているのが、見事なまでに咲き盛る萩の花束である。 その細く撓う一枝一枝には、 小さな紅紫の蝶形花が 零れんばかりに咲き垂れて、 ”ふわり”と身動ぐたびに、 可憐な花びらが零れ落ち、 秋の初風がそよ吹き散らす―――。 佐為でなくとも、そのたおやかさと艶やかさの相俟った美しさに目を奪われたはずである。 命婦殿は、ますます”ころころ”と笑い立てると、 「ほんにそなたは、如才ない。そのような婀娜やかな顔で煽てられては、とんと近頃顔を見せぬのを、責め立てることもできなくなる。」 そう言って、優美な仕草で手平を差し出すと、「だれぞ、萩を一枝これへ。」と、蔵人らに声を掛けた。 突然のことに驚いたのは蔵人たちである。 「「「「え゛」」」」 と、一瞬ざわめくと、揃いも揃って上げた顔を、慌てて扇で覆い隠し、暫く互いに突付き合っていたが、 「だれぞ。」と、命婦殿がもう一度声を掛けると、意を決したように先に並んだのが、”おずおず”と進み出て、花束を差し出した。 ”ちらり”とそれを一瞥し、一枝”するり”と抜き取るなり、 「そなたたちは、先に去ね。向こうの簀の子の端にでも座って待て。ただし、喧しい真似などなさるな。御方様の迷惑になる。」 そう命婦殿は、少し苛立たしげに言い付けた。 竹生命婦が憮然とするのは無理もなく、佐為と話を交わすのを見て取ると、蔵人らがとりあえず細殿の端に座り込んだまでは良いが、”ぱたぱた”とその立居もお粗末で、おまけに先程からずっと”ひそひそ”とさんざめく声が煩いのだ。 『こん・・・で、・・・なんて・・』 『後で・・・、・・しちゃ・・・い。』 『やっぱ・・・おり、い・・・よね。』 『えー・・・、あ・・・てき・・い。』 などと、気休め程度には、扇で顔を隠すようにしているが、互いに寄せ合う隙間から”こっそり”と佐為を覗き見て、興味津々にずっと囁き合っているのだ。 「「「「ふあーい。」」」」 と、どこか不満げな声色が、声を合わせて返事をすると、細殿を譲るように半歩引いた佐為の傍らを、 「あら、恥ずかしや。」、「あれ、はしたなしや。」などと大仰に言い立てながら、顔を覆った扇の遑から、”ちゃっかり”間近にその美貌を盗み見みすると、蔵人らが足早に摺り抜けて行く。 どうやら、擦れ違いざま一人、二人、袍の袖に何気に触れて行った者もいたようである。 そんな蔵人らを、苦笑しながら見送る佐為に、 「まったく、普段あれほど口さがないのに、こんな時だけはしおらしげな振りをする。大体、私があの年の頃は、遠くに殿御の御姿を見掛けただけで、柱の陰に身を寄せて震えておったものを。」 そう、忌々しげに言い放つ様子に、この命婦殿にもそんな頃があったのかしら、などと”ふと”その姿を思い浮かべると、失礼ながらもさすがに可笑しく、佐為は”くくく”と笑い声を上げた。 「華やぎたる上長に恵まれた蔵人や女孺たちは、どこも皆とても賑やかなもの。今日なども、慶麗殿の御方様に招かれて、御機嫌伺いに訪ねたところ、倩命婦殿や蔵人らにせがまれて、双六の相手をしておりましたら、こんな時刻になってしまいましたよ。」 と、まだなお可笑しげな声色がそう取り繕うと、 「ふうん、倩命婦殿か・・・。近頃頓にあの方は、そなたを気に掛けておられるとか。恐らくは人の良い御方様をせっついて、そなたを呼び寄せられたのであろう。 そのうち・・・、褥の上で紐解いて、口説かれるやも知れませぬなぁ。」 と、竹生命婦は少し小首を傾げると、からかうように佐為を見上げた。 倩命婦は、今帝の異腹の弟君である春宮様の御生母にあたる桜月女御に仕えておられたのだが、先帝が身罷られて後、あれほどまでに信任を得、細やかに御仕えなされておられたのに、尼となられたこの御方様に何故か付くことなく、今の慶麗殿の女御に仕えておられるのである。 とは言え、春宮様にも近しいこともあり、今でも命婦と言う身分以上の後宮の実力者でもあるのだ。 だが、この命婦殿、倩命婦と呼ばれていることを鑑みれば、よほどの洒落言でもない限り、若い頃は、そこそこの美人であったのだろうと思われるのだが、佐為の母よりも尚、まだいくつか年上で、幾重にも年を重ねた今、その肉付きの良い、と言うには余りにも豊満な重たげな容姿を思うと、今では通う男一人いるのかどうかさえ、怪しげなものである。 佐為は僅かに秀眉を上げて、”ふむ”と小さく吐息を吐くと、目の前の悪戯気な顔に目を当てた。 確かに、今までにも思いも掛けぬ相手から、いきなり迫られる、なんてことも何度かあった。(ちなみに、竹生命婦殿もこのうち。) 一度など、然る権家の未亡人に囲碁の指南の最中、いきなり押し倒されかけて、”やんわり”とその手を捻伏せ、”にっこり”とご遠慮願ったこともあるのだ。 (そんな素振りは殊更ないが、そのようなことにでもなれば、逃れる手立てはあったものやら、いくらなんでも願わくば、丁重に御辞退申し上げたいものだ。) などと”ちらり”と頭を過ぎったのが、思いがけなくも顔色に出たのか、困惑気なその秀美な顔に、竹生命婦が”くすくす”と可笑しげに笑う。 ”ふと”した拍子に佐為が見せる、この幼子めいた当惑顔が、それを知る女たちの心をざわめかせるのだ。 もっとも、当の本人にすれば、余り芳しくない時の顔つきではあるのだが。 「これはまた、お人が悪い。どうやら私をからかっておいでのようだ。」 と、佐為が苦笑交じりにそう言うと、 「そんなことはない。そなたを気に入っておられると言うのは、本当のことだから。」 そう、裾捌きも美しく緋色の袴を ”さらり”と払い、尚も身近に近寄ると、命婦殿は張のある艶やかな黒髪を ”ふわり”と揺らして、佐為を見上げた。 「少し・・・、頭を下ろしてもらえぬか。」 そう不意に乞われ、佐為が怪訝げながらも、頭を下げると、「もう少し。」と、尚も促され、更に顔を近づける。佐為の目が少し苦笑たようである。 もうあと少し顔を落とせば、綺麗に紅を刷いたふっくらとした赤い唇と、触れ合わんばかりの、かなり際疾い間なのだ。 「美事な萩が手に入り、春宮様の慰めにと、どの瓶に挿したものやら、どの筥に浮かべたものやら、ここまで色々迷って来たが、こんなところでこれほど迄に相応しい器に出会えるとは、思ってもおらなんだ。」 そう言うと、命婦殿は萩の花軸を丁寧に手折り、その優美な指先で”するり”と烏帽子へ差し入れた。 そのたわわに咲き垂れた薄紫の蝶形花の房は、 烏帽子を頂く長い黒髪と、”すらり”とした黒い袍の衣冠姿に、艶やかな彩を添えると、 その秀美な顔を、匂いやかに引き立てる―――。 「これは・・・」 そう、佐為が礼を言いかけたのを、命婦殿は押し止めるように、 「礼には及ばぬ。その代わり・・・、 挿頭の花さえ霞ませる美しい花夫なれば、 久に問わぬも・・・、 せめて口寄せ、匂い香移せむ・・・。」 と、吐息を吐くような甘やかな声音で、耳元に囁いた。 その見上げる顔の、頤から僅かに見える鎖骨へと繋がる稜線は、大概の男なら振るい付きたくなるほど色っぽい。 「野辺に啼くさ牡鹿は、萩を想うだけでなく、女を慕って泣く声が、あなたに届いてはおりませなんだか。」 そう、艶やかに微笑むと、佐為はその誘うように薄く開いた紅い唇に、”ふわり”と顔を落とし、自らのそれを軽く押し当てて、掬うように重ね合わせると、慣れたように滑り込んだ小さな柔らかい舌先を、軽く一、二度絡ませた。 やがて・・・、 短い口付けを解き、ゆっくりと顔を上げた佐為が、 その視線の先に認めたものは―――、 (葉月・・・) ”すっ”と目を細めると、一瞬、佐為が強張った。 金糸の文様をあしらった 白綾の襲ねに、濃色の袴姿―――。 いつの間に、そこにいたのか・・・。 目の前の反橋の欄干に寄り、 茫然と立ちすくむ小さな姿が、 不意に踵を返し、足早に立ち去ると・・・、 佐為は自分の迂闊さに、 舌打せんばかりの思いがした―――。 「あれは、杜の社の巫女殿か・・・。」 佐為の視線を追うように反橋を振り返り、足早に去るその後姿を見て取ると、 「見られることなど、気にせぬそなたが、そのような顔をするとは・・・、噂も時には、誠を映すか。」 そう、からかうように佐為を見上げた艶美な顔に、 「さあ、それはどうか。」 ”ふ”と小さく微笑むと、佐為は短くそう答えた。 |
TOP / NEXT
佐為が竹生命婦への言い訳に、
女郎花を引き合いに出した訳は、
-登場人物設定-の”竹生命婦”をどぞ...>>