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「く、口付けしてた?相手は、多分竹生命婦殿だ。」 早打つ鼓動を鎮めるように、白衣に羽織った襲の胸元を ”ぐっ”と強く握り締めると、葉月は常寧殿の孫廂を一気に突っ切った。 廂で冊子を折る女房らの中には、御簾の向こうでその様子を、怪訝気に見送る者もいたはずである。 だが、そんな事を気に留めることなく突き進み、その先にある弘徽殿へと渡る透廊の手前で、葉月は”ぴたり”と止まると、 「関係ない!!」 そう、吐き出すように大きく言ちると、”ぎゅっ”と強く目を閉じた。 ―――そう、私には関係ない。 「あの男が誰と何をしようが、私には関係ない!!」 もう一度、そう声を上げると、”ぱちり”と目を開け、”くるり”とまた向きを変えて、今度は西の簀の子を横切るように”のしのし”と歩き出した。 ―――私はね、葉月。 布石の一つで良いと思っている―――。 いつかの佐為の声が、葉月の心に蘇る・・・。 「な、何が布石の一つで良い、だ!しおらしいこと言っといて!やっぱり、ただの女誑だ!!」 葉月が思わず上げた声に、またまた御簾の向こうの女房たちが、装束を絎ける手を止め、猛然と突き進むその姿に唖然としている。 そんな女房らに気づいているやらいぬのやら、そのまま勢い良く突き当たりの角を曲がると、妻戸の前で、不意に葉月が立ち止まった。 目の前には、勇壮麗美な宣耀殿―――。 今立つ、この北廂のその先の角を曲がれば、先ほどの反橋がある。 そう、葉月は”ぐるり”と、常寧殿を一周したのだ。 今朝方、宣陽門を通った葉月は、そこに馬を預けている。だから、嫌でもあの橋を渡るしかない。 確かに、貞観殿を抜け、宣耀殿を”ぐるり”と回れば、あの橋は渡らずにすむ。 だが、さっきあの二人が抱擁していた、景麗殿へと続く回廊は、どの道どうしても通らねばならないのだ。 (まだ、いるのだろうか、あの二人は。 いや、佐為は私の姿を見止めたはず。 いくらなんでも、もうあそこにはおらぬだろう。 疾うに二人で・・・) なんだか、ヘンなことを考えそうになって、葉月は”ぷるり”と顔を振ると、”くっ”と手平を握り締め、意を決したように歩き出した。 さっき、橋の袂から恐る恐る覗いたとき、さすがに二人の姿はなかった。 ”ほっ”とする思いと同時に、どこか少し物悲しくて、そんな気持ちを振り払うように、葉月は一気に橋を渡り切ると、この宣耀殿の塗籠まで駆けてきたのだ。 この先の麗景殿へと続く回廊は、今いる塗籠の先から折れ曲がり、あの切馬道は、ここから見えない。 塗籠の角に寄り、葉月がその先を確かめるように、”ひょい”と覗き込んだとたん、”ぽむ”と何かに顔が埋まった。 (?ぽむ???) 黒くて、妙に暖かい、そのよく知る清しい薫りは・・・。 「は?な、何!?」 その主に気づいた葉月が、飛び上がらんばかりに退いて、目を ”ぱちくり”と見上げたものは、 ―――葉月を見下ろす優美な笑顔。 ・・・そう、佐為である―――。 普段の良く知る直衣ではなく、黒い袍の衣冠姿。 正確に言えば、その艶やかな長い髪が頂くのは、冠ではなく、烏塗の烏帽子ではあるが。 だが、その姿はいつもより尚堂々として、上背がある分、”すらり”として見栄えがする。 いや、上背のみならず、その秀美な顔立ちからは思いも寄らぬほどに、締まったしなやかな体躯は、不本意ながら葉月もすでに体感済みである。 命婦殿の蔵人ならずとも、大概の女ならば、その姿は垂涎ものなのである。 ―――葉月が一瞬、息を呑んだ。 そして、紅い唇を ”きゅっ”ときつく結ぶと、その姿を避けるように摺り抜けて、無言のままに”のしのし”と突き進む。 「そなたを待っていた、と言うより待ち伏せかな。私の姿を見とめる限り、そなたはここを通らぬからな。その陰にしばらく身を寄せていた。」 その姿を追うように、佐為が葉月に声を掛けた。 そう佐為は、この塗籠の陰に身を寄せながら、橋の袂の高欄の陰から、”ひょい”とこちらを窺うなり、”たた”と一気に橋を渡り、”きょろきょろ”見回す葉月の様子が可笑しいやら可愛いやらで、一人こっそりと楽しんでいたのである。 そんな佐為とは裏腹に、葉月は無言で突き進み、佐為は葉月の後に付く。 「見たのか。」 「・・・」 「怒っているのか。」 「・・・」 尚も無言で先行く姿に、佐為が”ふむ”と一息吐いて、 「それとも、妬いてでもいるのか。」 そう、”ぽそり”と小さく問うなり、 「なっ!!や・・・妬く!?私が何故妬く!あなたが誰と口付けしようが、私の知ったことではない!!」 ”くるり”と葉月は振り返り、”きっ”と佐為を睨みつけると、そう声高に言い放った。 「ふうん。やっぱり見ていたか。」 佐為がその口元に、”とん”と扇を打ち当てて、したり顔でそう言ちると、 ”きりり”と葉月が口端を噛み、見る間に頬に赤みが差す。 見上げるように睨まえるのは・・・、 戸惑うような秀美な顔。 その端正な唇は、先程まで命婦殿と・・・ ―――寄り添い合う二つの姿、 重なり合う顔と顔――― 不意に思い返されたその光景に、 ”きゅっ”と、葉月が目を閉じた―――。 (関係ない!) きつく結んだ唇が、微かに震えると・・・、 金の糸で浮き織りされた 浮線綾の襲ねの袖が、 ”ふわり”と揺れて、 葉月が、身を翻した―――。 「少しは私の話も聞け。」 咄嗟に伸びた佐為の腕に、一瞬早く捕らえられ、 「何を聞くことがある!あなたが何をなさろうと、私の与り知らぬこと! 聞くことなどない、この手を離せ!!」 そう声を荒げ、葉月が身を捩らんばかりに抗うのを、 佐為が尚も強く、押し止めようとした、 その時・・・、 「離せっ!」 苛立つ大きな声と共に、”ぱしり”と鋭い音が回廊に響いた。 葉月が空いた片手で、その秀美な顔を打ちかけたのを、佐為が既で躱すと、手馴れたように受け止めたのだ。 ”くっ”と、葉月が悔しげに息を吐いた。 「それでそなたの気がすむのなら、打たれてやっても構わぬが、いくらなんでも内裏では拙い。」 苦しげに目を細め、佐為がそう、くぐもる声で言い遣ると、 「ならば、この手を放されませ。 手首に痣立つ無体な真似を、あなたはまた、なさるつもりか。」 紅い唇を”きりり”と噛み締め、滑るような黒い瞳が咎めるように佐為を見上げた。 その端正な顔が、”ふ”と愁眉に曇ると―――、 やがて・・・、 佐為はその華奢な手首を、 ”きゅっ”と一度握り締めると、諦めたようにゆっくりと解き放し、 振り切るように足早に、回廊を去る葉月の後姿を見送ると―――、 「そなたに罪があるわけでなし。」 いつの間に落ちたのか、足元に散らける萩を丁寧に拾い上げると、 「さて、どうしたものか。」 そう花に問うように独言ちて、徐に踵を返すと、艶やかな黒髪を ”さらり”と揺らし、反橋へと足を向けた。 |