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別段、歌を詠むのも、文を書くのも煩わしいというわけではない。 懇意な女ならば、鳥の子の薄様に女の好む香を焚き染め、折々の四季に咲く草花の一枝を選び添えて、丁重に返しもするが、噂しか耳にせぬ見知らぬ女に相聞を送るくらいなら、碁譜の一つも書き留めるほうが、佐為としてはよほど楽しいし、有意義でもあったのだ。 第一、そんな面倒な手筈を踏まぬとも、言い寄る女はたくさんいた。自ら、男を誘う女は結構いるのだ。 そんな女達に誘われるまま通ううち、気が付けば、男に手慣れた女ばかりを相手にしていた。 だが、互いに割り切り、濃密な一夜を十二分に楽しめるのであれば、それはそれで良かったのである。 労することなく、女が受け入れてくれるのであれば、これほどありがたいことはないのだ。 かと言って、そんな女たちを別に軽んじている訳ではない。 竹生命婦をはじめ、懇意にする女たちはみな、器量もいいし、さっぱりとして、気風もいい。 洒落た歌を ”さらさら”と書けば、今様の流行歌を爪弾く手付きも小粋な上に、漢籍さえも朗々と講釈するのだ。 そこいらの蔭位によって高位を得ている良家の子弟などと比べれば、よほど素養もあれば、目端の利く者たちばかりである。 そんな女たちだからこそ、色恋のことなどで不平の一つも言われたり、ましてや揉めたことなど、未だかつて一度もなかった。 当然、佐為としては、戯れに交わした口付けなどで、葉月があれほど激しく嫌悪するなどとは、露ほどにも思っていなかったのである。 だから―――、 葉月にそれを見咎められたあの日から数日後、いつものように社に出向くと、そこに現れたのが、葉月の父、清直殿であったことに戸惑ったのは、子らだけでなく、それ以上に当惑したのは、実は佐為の方だったのだ。 数日経てば気持ちも解れる、そう安易に思っていた。そうすれば、少しは話も出来よう、と、そのつもりだったのだ。 だがどうやらそれは思惑違いだったようで、子らが皆、それぞれ家路へと帰った後、居住まいを正した清直殿が、 「実は―――、」 と、切り出したのだ。 事の次第については、何も聞いておられぬことは窺い知れた。だが、娘の様子から、それに佐為が係わっているのだろう、と言うことは承知しているようであった。 あの日―――、 娘の様子が普段と違うことに気が付いたのは、帰宅し装束を着替えているときだった。 いつもなら、着替えを手伝いながら、宮中に出向いた日などは、何処そこの壺にこんな花が咲いていたとか、何処そこの女房殿の御召が、どんな風に素敵だったとか、その日にあった些細なことを、楽しげに話して聞かせるはずの娘が、その日に限って、何か気がかりでもあるのか、どこか物憂げな様子なのが気にはなっていたのだ。 だから、夕餉の後、それとなく問い質したとき、突然、「しばらく手習いを休みたい。」と言い出され、 「何故か。」そう何度理由を問うても、頑なに口を閉ざし、唇をきつく結んだまま ”じっ”と俯く愛娘の姿には、さすがに神司と言えども成すすべもなく、溜息を吐くしかなかったのである。 毎年、年末年始にかけ、宮中の重要な行事である五節会の内、豊明、元日、白馬、踏歌の四つの儀式が立て続けに行われるのだ。 この最も神司として多忙な時期に、葉月が嫌だと言う以上、子らに碁を教えて遣れるような時間を作るのは、到底不可能な話である。 そして、それらの行事に出席し、式次第を恙無く執り行うのが、官僚としての重要な役目であり、それは神司だけではなく、官僚としての立場もある佐為も同じなのだ。 だから、清直殿から、「年明け頃までは、御足労願うこともありますまい。」、そう苦笑交じりに言われたことには、佐為としても異論は無かった。 だが、このまま葉月を放っておく訳にもいかず、清直殿に許しを乞い、葉月の部屋まで押しかけてみたものか、などと、少々不届きなことを思ったりしたのだが、よほど佐為と顔を合わせたくなかったのか、たまたまなのか、その日は、左大臣邸に所用で出向いていたらしく、以来、葉月とは一度も顔を合わせることは無かったのである。 十月も半ばになると、”しとしと”と降る霖雨もそろそろ終わりを告げる。 豊明の節会も近いとは言え、宮中には、まださほど慌しさはなく、あちらこちらの局の御簾の向こうから、女主人の指図の元、儀式の後に下賜される被物でも品定めしているのか、”さらり”と微かな衣擦れの音や、”かたこと”と唐櫃らしき箱を開け閉めする物音に紛れ、時折、女たちの華やいだ笑い声が回廊にさざめき立つ。 「まったく、式部の丞殿には、かなわぬな。」 特に急ぐ風でもないが、軽やかな足取りで承香殿の簀子を行く佐為は、可笑しげに呟くと ”くすり”と苦笑した。 例年この時期になると、普段は公卿しか列座せぬ閣議にも、しばしば判官以上の官僚も集められるのだ。 儀式に列席し、古より伝わる故事先例に忠実に従い、一言一句、一挙手一投足、寸分違わず振舞うことが、官僚としての重要な務めの一つなのである。 そのため、この時期、立て続けに行われる宮中の重要な年中行事である節会の式次第の細かい打ち合わせが、頻繁に行われるのだ。 そんな少々息の詰まる会議も、いつもよりやや遅い未の刻頃には果て、議場となった曹司を退出しかけて、佐為は ”とんとん”と背を突付かれた。 振り返って見れば、式部の丞、紀厚貴殿である。 「お時間あれば、少々付き合っていただけますかね。」 人好きのする満面の笑みを浮かべた肉付きの良いまあるい顔が、佐為を見上げ、そう切り出した。 「さて、何用ですか。」 ”ふわり”とこちらも微笑むと、その丸い顔に目を留め、佐為は今朝方のことを思い返した。 早朝参内した折に、議場となるこの紫宸殿東面へ向う途中、宜陽殿の柱の影で手招きする人の姿は、佐為も良く知る倩命婦殿の蔵人頭だったのだ。 命婦殿からの言付だと手渡されたのは、貝合わせの誘いの文で、不意に褥の上で紐を解く、命婦殿の姿が頭に浮かびかけて、佐為はそれを打ち消すように、扇で”とん”と額を打つと、承知の旨を短く答えておいたのだ。 特に時間を言い交わしているわけではない。だが、あまり遅くなるのも躊躇われた、と言うより、その勇気は佐為にはなかった。 どうしたものか、と、暫し思い巡らせていたが、そんな様子に、まるで頓着することなく、式部の丞殿は、手近の局の御簾の遑に扇を差し入れると、”ぴらり”とめくって中をうかがい、否応もなく、佐為を中に招き入れた。 幅三間のその部屋には、畳が二畳敷かれており、その傍らに、文筥と硯筥の置かれた二階棚が一卓と、そして数脚の燈台が設えられていた。 その片隅に置かれていた円座を佐為に勧めると、式部の丞殿は、徐に縹の袍の懐から四つ折にした少し厚手の鳥の子を取り出して、これまた肉付きの良い丸い手で、床の上に ”がさがさ”と広げると、”にっこり”と微笑んで、 「これに付き合っていただきたい。」 そう一言、佐為に告げた。 その厚手の鳥の子紙には、覚束ない筆遣いで、線が一本、その左右には、これまた歪な丸が一個と、数個の丸が乱雑に描かれており、佐為は半ば呆気に取られて、それを眺めた。 (これは、新しい遊びか何かか?) 混乱する頭の中で、それに当てはまりそうなものを色々巡らせては見たが、一向に分からない。 確かめるようにもう一度丸い顔に目を移すと、今度は一欠の塵屑と、手垢のついた冊子を取り出して、 「宜しく。」と、これまた得意げな笑みを向けた。 (この男、やはり良くわからぬな。) そう心で呟くと、佐為はもう一度、目の前の小太りの男を見直した。 そう、この男とは、今までに何度か碁を打ったことがあるのだ。こちらもはっきり言って、よくわからない。が、強い。 先日も、宮中の競碁でこの男と打った折、いきなり対角になす星に次々と石を打ち、佐為を唖然とさせたのだ。 確かにそんな手も無くは無い、だが碁打ちとしてはめったに打たぬ手なのである。ただの思いつきなのか、それともこちら以上に深い読みがあるのか。あるべき石の流れの見えぬ飄々としたこの男の碁には、かなり苦戦させられたのだ。 佐為がもう一度困惑気に、床に並ぶ塵に目を移すと、「では、始めますか。」そう言って、塵屑を摘み上げ、”ごそごそ”と広げたのは、乱雑に切り取られた三角と丸が繋がった紙屑である。それを ”くるり”とひっくり返すと、 「では、これを順に動かしますので、ここに書かれているのと、相違ないか見比べてくだされ。」 そう言うと、手垢にまみれた冊子を、眼前に差し出され、少々それを手にするのは躊躇われたが、佐為は仕方なく受け取ると、汚れた表紙に 「部類」の文字が辛うじて読み取れた。 どうやら、四つ折の紙に描かれているのは式場の絵図で、丸と三角の紙屑は人形のつもりらしい。それらを使って式の次第を、なぞるつもりのようである。 「それは代々当家に伝わる部類記で、めったに他人には見せられぬもの。ましてや、式部の同僚など、以ての外でございますよ。」 そう前置きすると、式場への入場に、どちらの足から歩を進めるのだとか、どこでどんな口上を述べるのだとか、事細かに辿っていくのだが、途中、式部の丞殿の講釈まで入るのだから、気が付けば小半時も経っていた。 「はてさて、まったく。」 佐為はもう一度、溜息混じりに呟いた。 誰にも見せられぬ部類記ならば、何故私が相手をせねばならぬのか。やはり、良くわからぬ男だ。 だが、御蔭ですっかり次第は覚えてしまったし、もし式部の丞殿の代わりを務めねばならなくなっても、勤まるやも知れぬな。などと、暢気なことを思いながら、回廊を歩く佐為が、不意に立ち止まると、その下を ”きらきら ”と流れる水面に目を移した。 先ほどまでの秋雨は、今はすっかり降り止んで、慶麗殿へと続く細殿には、淡い薄日が差し始めている。 その下を流れるせせらぎの周りに咲く秋牡丹や石蕗は、冷たい雨に打たれたせいか、濡れそぼった頭を傾げ、心なしか寒々しげである。 佐為はその端正な顔を、ゆっくりと振り仰ぐと、その水上に目を向けた。 その先に見えるのは、優美な孤を描く反橋である。 そう、その流れは、あの反橋の下から続いているのだ。 ―――私には、関係ない! 睨まえるように見上げた黒い瞳と、 きつく結んだ紅い唇―――。 (どうしているのやら。) 佐為は、”ふ”と小さく吐息を吐くと、黒い袍を ”ふわり”と揺らし、慶麗殿へと踏み出した。 |