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先ほどまで降っていた露時雨もすっかり上がり、慶麗殿の廂には、青味出した雲間から差し始めた、薄日の淡い光を取り入れるように、蔀格子が吊り上げられた半蔀が、”つらり”と立てられている。 その廂に、人影は無い。時折、御簾の向こうから、女たちの話し声や柔らかな衣擦れの音が、漏れ聞こえるくらいである。 階を上り、妻戸をくぐり抜けた時、その声が聞こえたのだ。 さほど、大きな声ではない。だが、まだ若い女の非難めいた嬌声の後、”どっ”と楽しげな笑い声がどよめいたのだ。 はっきりとは聞き取れなかった。 だが、微かに聞こえた、その女が口にした名に、佐為は一瞬立ち止まると、その涼やかな眼差しを、ゆっくりと巡らせた。 目の前の御簾の向こうは、倩命婦の局である。先ほどの女の声は、確かにそこから聞こえたのだ。 佐為は、”ふわり”と歩を踏み出すと、その御簾の傍らに寄り、徐に膝を衝くと、 「これはまた、楽しげな。 命婦殿に招かれて参りましたが、私などが、邪魔立致してもかまいませなんだか。」 そう、声を掛けると、 御簾の向こうを透見るように、 いつもの優美な笑顔を向けた―――。 御簾の傍に立てられた、匂染めの薄色に朽木模様のあしらわれた几帳や、四季折々の花鳥や山水の大和絵が描かれた、雅やかな彩りの立障子や屏風の素晴らしさは言うに及ばず、 室内に設えられた、銀のゆする坏と火取を据えた、七色に輝く螺鈿細工の美しい二階棚や、金糸の飾り房が垂れた錦の敷かれた天板の上に、筝の琴が無造作に置かれた、煌らかな蒔絵で装飾された二階厨子などの調度の数々も、目を見張るものばかりである。 その几帳の向こうから―――、 「えーっっ! では、葉月殿は、やっと治部少輔殿から、御文をもろうたと言うのに、しばらくは会わぬほうが良いと申されるのかぁー?」 そう咎めるような若い女の、少し調子の外れた甲高い声が上がった。 そこには、数枚の畳が敷かれ、上手には、脇息にしな垂れかかった中年の大柄な女房が座し、その前には、まだ、うら若い女が四人対座している。 三人は褶を引いた唐衣姿、 そして、もう一人は・・・、 白衣の上に襲ねを羽織った、 濃色の袴姿―――、 ―――葉月である。 一瞬、その剣幕にたじろぐと、葉月は向かいに座る一つ、二つ年上の蓮葉ななりの女蔵人に目を当てた。 そして、 「いえ、そういうことではなく、この先の幾日かは、できるだけ身を慎まれ、月の終わり頃の方が、待ち人との出会いもよろしいかと。」 そう取り成すように、ゆっくりと言葉を継ぐと、 「ここはどうだ、巫女殿の申される通りにしてみては。そなたのように、”やいのやいの”と責っ付いては、少輔殿も落ち落ち夜も寝ておれぬだろう。 男を焦らせてみせるのも常套。そなたがここで間を置けば、今度はあちらが不思議に思うて、気を揉むことになるやも知れぬ。 しかし・・・、 なんでそなたのような浮気な女が、あのように大人しい生真面目な男に惚れたのやら、まったく少輔殿が気の毒としか思えぬな。」 葉月を助太刀するように切り出した、そのほとほと呆れたような命婦殿の口調に、 「えーっ!もお、御局様までひどいことを申されますな。今度こそ、私は本気でございますぅ。」 そう、”ぷう”と頬を膨らませたふくれっ面に、”どっ”と周りが笑い転けると、葉月は ”ほっ”としたように、斜に座る大柄な女房に目を向けた。 確かに、大きな身形である。 畳の縁からはみ出しそうな、大きな体の肩あたりの盛り上がりは、どう見ても、近頃めっきり冷え込んだ寒さを凌ぐために、幾重にも重ねた袿の所為ばかりではない。 脇息に ”でん”と乗っけた腕の袖先から覗く、白い御粉をうっすらと綺麗に刷いた柔らかそうな手の甲は、まるで丸められた、つきたての餅のように、”ぷっくり”と膨らんでいる。 そして、これまた体付きのみならず、その顔の造作も大振りで、”ぱっちり”としたと言うには、あまりにも”きょろり”とした大きな目や、小鼻の張った大きな鼻、そして、少しでも小さく見せるためか、”ちょこん”と紅の塗られた口は、はみ出た分だけ、なお大きく見える。 一つ一つを取り上げれば、結構愛嬌もあり、決して悪くは無いのだが、その全体の迫力に、誰もが気圧されるのだ。 竹生命婦にからかわれた佐為が、後込みするのも無理ない話である。 だが、葉月は、内裏へ出入りするようになってから、何かにつけて気に掛けてくれる、この命婦殿が大好きなのだ。 そんな葉月に気が付いて、 ”にっこり”と笑いかけた倩命婦の笑顔は、優しげで人懐こく、 つられるように葉月が微笑み返した時―――、 「これはまた、楽しげな・・・」 ―――不意にそう、 御簾を通して声がしたのだ。 その耳慣れた穏やかな声に・・・、 (さ、佐・・為だ!) ”とくん”と、小さく鼓動が鳴って、 ”きゅっ”と、葉月が身を強張らせた―――。 (な・・?どうして佐為が・・・?) 咄嗟のことに、まるで訳がわからない。 だが、几帳を隔てた直ぐ傍の御簾の向こうに佐為がいる、そんな思いが過ぎったとたん、なんだか ”かっ”と体が火照って、”どきどき”と急に大きく鳴り出した、自分の胸の高鳴りが、周りに聞こえるような気がして、葉月が尚も身を竦ませた。 そんな葉月の様子など、命婦殿は気づかぬように、”とん”と几帳を押しやると、”ひょい”と顔を覗かせて、 「ほんにまあ、淑やかげな物言いを。 余りにそなたが遅いので、命婦のことなど、疾うに忘れてしもうたのかと思うておった。さ、早う、お入りなされませ。」 そう、うれしげに声を掛けると、 御簾の傍らに侍座する姿に、 ”にっこり”と微笑んだ―――。 (は!?) 驚いたのは葉月である。 命婦殿のその一言で、”きゅん”とするよな面映さも、見事なまでに吹っ飛んだのだ。 確かに近頃は、あの、人を食ったような取り澄ました顔を見掛けないのも、なんだか少し寂しいような気はしていた。 先日も、いつの間にか暮れた部屋で、碁盤を前に ”ぼーっ”としていたようで、 「どうしたのだ、灯も灯さずに。」 と、父に窘められたのだ。 でも、やっぱりどうしても、佐為と顔を合わせるのは気まずくて、あれ以来ずっと避けてきたのである。 今日だって、そうなのだ。 佐為が参内していることは、今朝方、父に装束を着装わせた折、それとなく聞かされていた。 とやかく問わぬまでも、父は父なりに、気に掛けているようなのだ。 でも、どうしても、佐為と出会ってしまうのは躊躇われて、議場となっていた紫宸殿近くには近寄らぬよう、慶麗殿に来るにも、わざわざ一番遠い玄輝門を通って、”ぐるり”と遠回りしてきたのだ。 なのに・・・、 (えーっっ!?な、なんでぇっっっー!?) 「寝耳に水」とは、このことである。 佐為を呼び寄せていたなんてこと、一言だって聞いてないのだ。 (とっ・・・、とにかく、ここはさっさと退散せねば。) そう思い立ったのだが、どう暇を乞うたものやら、焦るばかりの今の葉月に、妙案が浮かぶわけも無く、 (ど、ど、ど、どーしよう・・・。) そんな思いだけが ”ぐるぐる”と頭を巡り、妙に ”そわそわ”と落ち着かなげに、葉月が浮き足立ったとき・・・、 ”ふわり”と―――、 深い杜を思わせる、 衣香の清しい薫香が、 葉月を包み込んだのだ―――。 |