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その耳慣れた穏やかな声と、見慣れた ”すらり”とした指先に、一瞬、葉月が息を呑んで、”ぷい”と顔を逸らせると・・・、 その人は―――、 ”くすり”と笑ったようである。 「どうした、そなたのだろう。受け取らぬのか?」 耳触りの良い いつもの声が、そう促すと、葉月は、”きゅっ”と手を握り締め、 やがて・・・、 ”おずおず”と腕を伸ばすと、羅盤を受け取って、”ぱたぱた”と急くように平包に包み込んだ。 「れ、礼は申し上げる。」 小さな くぐもった声で、そう告げると、”すっく”と立ち上がり、振り返ることなく回廊を歩き出した葉月に・・・、 「少し、私と話をせぬか?」 そう―――、 佐為が、声を掛けた。 宣耀殿と景麗殿を結ぶ回廊は、”コ”の字に曲がる細殿である。 その吹き抜けの回廊を、まだ雨跡の乾ききらぬ端を避けるように、”すたすた”と行く葉月が、 「なっ、何が、『少し、話をせぬか。』、だ、全く! 話すことなど何もない!!」 そう、声を荒げて、独言ちた。 佐為が声を掛けたのは、わかっていた。だが、素知らぬ振りをしたのだ。 どうせ、あの すかした顔で、小馬鹿にされるのが落ちなのだ。 いつだって、そうなのだ。 佐為は、からかうだけ からかって、それを楽しんでいるのだ。 なんで、そんな佐為を、皆、優しいなどと口を揃えるのか、葉月には、さっぱり わからない。 「一体、何なのだ・・・」 そう、”ぽつり”と呟くと・・・、 細廊の行く前に架けられた、 渡板に目を落とした―――。 あの、切馬道である。 不意に、過ぎったのは―――、 寄り添いあう、二つの姿・・・。 (違う・・・、 優しくないのは、 私にだけなんだ―――) ”ふ”と、そんな思いが浮かんで・・・、 葉月は、回廊の傍らに流れる、水瀬の流れに目を逸らせた。 いつもの清水の流れは、先程やっと降り止んだ露時雨の所為で、だいぶ濁って水嵩も増え、その流れに ともすれば、さらわれそうに水面に揺れる小さな石蕗の花が、なんだか切なくて・・・、 葉月は―――、 ”とん”と渡板に足を下ろすと、足早に行き過ぎた。 「あなたは、どちらに参られる。 この反橋を渡られるのか、それとも このまま廂を行くのか?」 宣耀殿の塗籠脇の濡縁を曲がり、妻戸の前で ”ぴたり”と止まると、葉月は振り返ることもなく、そう佐為に尋ねた。 回廊は、ここで二手に分かれるのだ。 このまま真っ直ぐ廂を行けば、先に御匣殿への渡廊があり、妻戸をくぐって反橋を渡れば、常寧殿の孫廂へ出るのだ。 「・・・そうさな、一体どちらに行ったものかな。」 葉月の直ぐ真後ろで、”つい”と立ち止まる気配がすると、どこか他人事のように、佐為が曖昧に答えた。 「はぁ?」 葉月が、呆れたように声を上げた。 一本道の細殿のこと、ここまでの道すがら同じだった、と言われれば、それまでのことである。 だが、この先 自分が何処へ行ったものやら わからぬとは、ふざけた話である。 ”くるり”と勢い良く振り返ると、 「あなたは当所もなく宮中を、ふらついておられるのか! あなたに後を付かれては、何だか こちらが落ち着きませぬ!あなたの訪ねるべき場所へ、さっさと、おいでなさいませ!」 葉月が、そう声を荒げ、”ぴたり”と佐為を睨みつけると、 「ふうん・・・、訪ねるべき場所ねぇ。」 佐為は、”ぽつり”と呟いて、反橋のその、まだ先に、ゆっくりと目を巡らせて、”とん”と、扇で口元を打つと・・・、 「竹生命婦の局とか?」 そう、からかうように ”くすり”と笑って、”ふわり”と葉月を覗き込んだ。 ”くっ”と―――、 葉月が息を呑んだ。 何だか、良くわからない。 だが、その佐為の一言に、ひどく苦いものが、一瞬、胸に込み上げたのだ。 ”ぱっ”と、頬に血を上らせると、 「あなたの勝手になさればいい!」 そう言い放ち、”くるり”と踵を返した葉月に、 「そなたは、まだ、許してはくれぬのか?」 押し止めるように、佐為が声を掛けた。 「許す?」 葉月が、怪訝気に声を上げた。 「一体、何を許せと申される。 あなたが何をなさろうと、私の与り知らぬこと。それを、何で私が咎める。 何のことを申されてるやら、”とん”と心当たりありませぬな!」 ”ちらり”と佐為を振り返り、そう苛立しげに答えると、 「ふうん、そうか・・・。そなたに、心当たりはないか。 ならば、そなたに疎まれる謂は何もないわけだ。 そなたに避けられている、と思っていたのは、どうやら私の思い過ごしだったようだね。」 いつもの穏やかな声で、そう言うと、佐為は軽く小首を傾げて、葉月の顔に目を落とすと・・・、 ”ぴくり”と葉月が身を強張らせた―――。 そうだ、確かにそうなのだ。 佐為が誰と何をしようが、自分には係わりのないこと・・・、 わかっているのだ、頭の中では―――。 だが、佐為と顔を合わせるのが、何だか怖くて苦しくて・・・、 心が、それを拒むのだ―――。 「ならば、少し話がしたいな。そなたに付いて行ってもいいか?」 そう ”にっこり”と笑顔で問われ、葉月は ”きゅっ”と唇を噛むと・・・、 「勝手になさいませ!但し、何も話すことなどありませぬ!」 そう言い捨てるなり、”くるり”と身を翻した。 弘徽殿の御方様は、左大臣、太政大臣の御元に、前の帝の皇妹が、降嫁なされて儲けられた姫君で、添臥をなされた主上様とは、従姉弟の間柄である。 その弘徽殿の東廂南端には、左近衛大将も兼ねる左大臣が、内裏での執務や警護で宿直する為の曹司が設えられており、今日は そこに詰めている左近衛少将である友成に、暇つぶしの相手をするよう、前々から呼ばれていたのだ。 葉月は、常寧殿と弘徽殿を結ぶ渡廊を、足早に通り過ぎると、殿舎の出入り口となる妻戸をくぐって、”くい”と曲がり、 孫廂を二、三歩歩むと―――、 「一体どこまで付いて来られる!」 そう、”くるり”と振り返り、 「竹生命婦の局なら、そこの妻戸を あっちに行って、北の簀の子を参られるのではありませぬか!」 まだなお、後に付く佐為を、”ぴたり”と睨みつけた。 そう、葉月の言う通り、竹生命婦が局を構える登華殿は、弘徽殿の北に建ち、そこへは今いる孫廂とは反対の、北の簀の子を通って、切馬道のある回廊を渡っていくのだ。 「ふうん・・・、やっぱり気にしてるんだ。」 つられるように立ち止まり、佐為が意外気な顔をして、葉月の顔を覗き込むと、 「きっ、気になどしておりませぬ!!」 ”ぱっ”と頬を赤らめて、葉月は ”ぷい”と身を返すと、佐為を振り切るように、又 ”すたすた”と歩き出した。 (なっ、何なんだ! 『命婦殿の局に行く。』と言っていたのは、そちらの方ではないか!そっちこそ、一体どこまで付いて来る気なんだ!!) そうなのだ。 「話がしたい。」と付いて来た佐為は、本当に一人で ずっと しゃべって、”とことこ”ここまで追ってきたのだ。 普段は端正な顔をして、”しれっ”としているものだから、余り係わることがなければ、取っ付き難く見えるのだが、結構、佐為は良くしゃべる。 数日続く競碁の後、社に出向いた折などは、葉月の父と明け方頃まで、酒の興も手伝ってか、楽しげに二人で盛り上がっていたりするのだ。 で、今日も・・・、 さっき通った常寧殿の廂でも、どうやら倩命婦の局に来る前、あの、佐為の苦手な紀式部の丞殿に捉まったらしく、訳のわからぬまま、今度の節会の式次第に付き合わされたことを、「聞いているかな。」などと、途中 何度か確かめながら、結局、葉月が聞く聞かざるに係わらず、面白可笑しく話していたのが、 いつの間にか、”さらり”と子らの事に触れて、「皆元気にしているか。」、などと聞くのだが、 葉月の安否は問わぬとも、子らの方は気になるのだ、そう思うと、何だか又 腹も立って、尚も口を噤んでいると、挙句の果てには、 「自分は、子らに碁を教えてやりたいのに、それが出来ないのが寂しい。どうにか ならぬものかな。」 などと、半分泣きが入る頃には、 何だか その言いようが、小さな童部の捏ねる駄々と、大差変わらぬのが可笑しくて、つい、”くすり”と吹き出してしまったりしたのだが―――、 半ば辺りを過ぎる頃には、どうやら廂を渡る佐為の姿が、かまびすしい女房らの目に留まったらしく、 「まあ、御覧・・・、やはり・・・ね。」 「一体、・・・しら、・・・・なんて。」 「・・・とか、・・・ほんに・・・、・・・ものね。」 などと、”ひそひそ”と声を潜めて話す声が、御簾を通して聞こえてきたのだ。 そりゃまあ、”さらり”と たなびく長い艶やかな黒髪のみならず、宮中でも、そうそう見かけぬ長身と、秀美な顔立ちに似付かわぬ しなやかな体躯は、ゆったりとした黒い袍と相俟って、誰もが見惚れる容姿である。目立つのも致し方ない。 おまけに、その先を行く葉月の後を、佐為が追っているものだから、なおさら女たちの好奇を煽ってしまったらしく・・・、 そんな話し声など、普段さして気にしないのだが、どう考えても、御簾の向こうの女房らの口の端に上っているのが、自分と佐為のことだと思うと、何だがひどく面映くて、弘徽殿まで足早に渡ってきたのだ。 (もっとも、佐為の方は、御簾の向こうの女房らに、何度か呼び止められていたようで、その度に、軽く愛想を言っていたようではあるが。) 「はぁ。」と、葉月が溜息を吐いた。 また前のように、面白可笑しく噂が立って、あちらこちらの局に呼ばれるのか、と思うと、何だか ”ずん”と気が重くなって・・・、 「一体、何なのだ。」 そう、”ぽつり”と呟いて、東廂の突き当たりにある、左大臣の曹司の前に立ち止まると、 「友成、いるのか?」 と、御簾の遑に声を掛けた。 |