−想い 壱− |
「そなたは、いくつだ。」 そう聞いた、 戸惑うような優しい瞳。 そうだ、私はあの時から、 ずっと、あなたのことが好きだったのだ―――。 ヒュイー―――――――――――― 高く澄んだ笛の音が、 鬱蒼とした山に響き渡った。 「迷ったか・・・」 その声と共に、”かさり”と鮮やかに色付いた楓の枝を払い、烏帽子をくぐらせるように現れたのは・・・、 佐為である―――。 白と薄色を重ねた菊重ねの狩衣を纏い、いつものように、その艶やかな黒髪は、腰あたりで ”きりり”と綺麗に束ねられている。 だが、その ”すらり”と伸びた背には白葛の 箙を背負い、手には重籐の弓を携えた、普段あまり見ることのない狩装束である。 「そなたが、案ずることはない。」 そう、いつもの穏やかな声で、優しげに声を掛け、少し落ち着かな気な愛馬の手綱を、心持ち強く引くと、馬首の辺りを軽く あやすように叩いた。 まったく、これが牝馬ではなく、人の女ならば、この優しげな一言で大概 ”ころり”と落ちているところである。 佐為は、ゆっくりと その涼やかな眼差しを上げると、周りを ”ぐるり”と見渡した。 人の気配は、全くない。 手入れの跡が窺えるとは言え、周りはどこまでも続く錦の雑木林である。 「さて、どうしたものか。」 錦秋を彩る、目に痛いまでの鮮やかな とりどりの色に染まった木々の紅葉の間から、まだ青味の残る空を見上げ、呟いた声色には、その言いようとは裏腹に、さほど差し迫ったような様子は感じられない。 だが、陽が落ちるまでには、まだ少し時間があるとは言え、秋の日は ”あっ”と言う間に暮れるのだ。 このまま闇雲に山を下りるより、火の用意でもした方が得策かも知れぬな、などと思いながら、佐為はもう一度、長い指先を唇に当てると、 ヒュイー―――――――――――― と、澄んだ指笛を吹いた。見失った犬を呼んだのだ。 今年は、暑い夏が なかなか来ず、穀物の不作が懸念されていた。 官米の放出が取り沙汰されだした八月の半ば過ぎ、やっと例年の暑さが戻り、どうやら飢饉の恐れは回避できたようである。 だが、やはり里山の実りは例年になく少ないようで、近頃立て続けに、木の実や茸を狩りに入った里人が、食べ物を求めて山を下りてきた熊に遭遇し、とうとう先日は、薪を集めに行った左大臣家の小作人が、いきなり出会した熊に襲われ、怪我をしてしまったのだ。 さすがに こうなると、放っておくこともできず、近衛少将である友成が腕の立つ家臣を引き連れ、山深くへと駆り立てることになったのだが、佐為の飼っている老犬のことを、どこでどう聞き付けてきたのやら、「ぜひ、借りたい。」と、申し出があったのだ。 その犬の名は、「疾風」。 さほど大きな犬ではない。甲斐と言う名の国の犬で、茶褐色に黒毛の斑のある虎毛に、ゆるく巻いた太い尾っぽが可愛い、佐為が まだ鬟結いの童男だった頃から飼っている狩犬である。 その頃は、疾風のごとく駆け回る子犬であったのだが、今ではもう、たまに佐為を相手に庭を駆けるか、邸宅近くの加茂川縁で、小さな水鳥を相手に狩りの真似事をする以外は、佐為の部屋の庭先で、ほとんど一日微睡んでいる、かなりの老犬である。 だが、老いても そこは狩犬のこと。 主人に どこまでも忠実である反面、おいそれとは他人に従わぬ気性の激しさは、今も昔も変わらない。 で、結局・・・、 友成に乞われるまま、否応もなく、主人である佐為が、駈り出されるハメになってしまったのだ。 尤も、佐為の弓射の腕前は、友成も承知している。 始めっから そのつもりだったようで、致し方なく承諾した佐為に、 「そうしていただければ、心強い。いやぁ、まこと、忝いですなぁ。」 と、”ぽりぽり”と頭を掻き、あっけらかんと うれしげに礼を言う、その開けっ広げな姿には、思わず佐為も苦笑してしまったのだ。 「どこにいる、疾風。」 そう呟いた佐為は、自分の至らなさに歯噛みせんばかりの思いだった。 今思えば、もう少し気を配っておくべきだったのだ。 山に踏み入るなり、疾風の様子が一変したのだ。 昔を思い出したのか、静かながらも その心の昂ぶりが、佐為にも はっきりと伝わって来たのだ。 いつもは ゆるく巻いた尾を、”ぴん”と立てると、”すっく”と小さな体を伸ばし、馬上の佐為の ほんの些細な仕草をも、見逃さぬかのように付き従う姿は、往年の狩犬そのままの姿だったのである。 「熊がいたぞっ!!」 そう、森の奥から聞こえた声に、周りの従者達が響動めくように色めき立ったとき、疾風の興奮は頂点に達していたのだ。 我慢しきれぬように、”ばっ”と毛を逆立てて、”すっ”と腰を上げた様子に、一瞬、気付くのが遅れたのだ。 手筈を確かめる為、ほんの二言、三言、友成と言葉を交わした間の出来事だったのだ。 「疾風、待てっ!」 そう、鋭く制止した佐為の声も、すでに疾風には届いていなかったようで、 ”だっ!”と、弾けるように走り出した姿は、普段、日がな一日 庭で微睡む老犬とは思えぬほど精悍で、”あっ”と言う間に、生い茂った下草に紛れてしまったのだ。 結局―――、 事の顛末としては、最初見つけた熊は、どうやら親子連れの子の方だったようで、追い立てられる我子に気付いた母熊が、突然 柴木の間から、従者に襲い掛かってきたそうである。 その、あわやと言うところへ、ものすごい勢いで駆けてきた疾風が、両者を引き離すように激しく吠え立て、割り入るように立ちふさがると、その剣幕に怯んだ母熊を、森の奥へと追い立てて行ったらしいのだ。 このまま、子の方も捨てておくわけにも行かず、とりあえず捕獲すると言う友成に、後のことは頼むことにし、数人付けると言う従者も、一人の方が身軽だと、丁重に辞退して、落ち合う時と場所を決め、一人 疾風を探すことにしたのだが・・・。 「さて、どうしたものか。」 佐為が、もう一度呟いた。 佐為の吹いた指笛に、疾風の戻る気配はなかった。 だが、このまま疾風を残して、里に下りる気にはならなかった。 どうやら、雨の心配はない。薪にする柴木も、この辺りに落ちているものを拾い集めれば、一晩くらいなら、十分暖は取れるはずである。 「さっき、木通も見かけたな。」 などと、すっかり野営を決め込んだようで、”ぱっくり”割れた紫の実が、たわわに生っていたのを思い返しながら、結局、友成らに掛けてしまう迷惑を思うと申し訳なく、それ以上に、やきもき心配するであろう家人らのことが思われて、又、乳母やに叱られるな。などと、悠長に思い巡らせていると・・・、 不意に、草を食む馬が、 ”ぴくり”と頭を擡げたのだ―――。 「疾風か。」 馬が見つめる その先に、佐為は視線を巡らせると、そう、一言問うなり、 ”たん!”と、 鐙を打ち当てた―――。 |
素材:十五夜様