−想い 弐− |
「・ぁ・ん!・ぁ・ん!・ぁ・ん!・・」 微かに聞こえるのは、確かに犬の鳴き声である。 だが、その吠え方は尋常ではない。 「疾風!どこだ!!」 そう声を上げると、避けきれぬ細い枝先が、顔に打ち当たるのも気に留めることなく、佐為は馬を早らせた。 「わん!」 ”ざっ!”と雑木を抜けたとき、はっきり犬の吠える声が聞こえたのだ。 「疾風!」 行く手を阻む枝先を、打ち払うのも もどかしげに、佐為が 先に小さく認めたものは―――、 地に頭を低く付け、激しく威嚇する疾風の姿であった。 「疾風!下がれっっ!!」 その姿に、佐為が咄嗟に大きく叫んだ。 どうやら、獲物を追い詰めたようだった。 だが、それが何なのかは、その姿を確かめることは出来なかった。生い茂った身の丈ほどの潅木に、阻まれているのだ。 だが、もし それが、先ほど聞いた親熊であるならば、余りにも間合いを詰めすぎていたのだ。 このまま疾風が引かぬ限り、追い詰められた親熊が反撃に出かねない。いや、それより先に疾風の方が、今にも獲物に飛び掛らんばかりの形相なのだ。 どちらにせよ、いくらなんでも小さな疾風では、一溜まりもないのである。 (このままでは、やられる!) そんな思いが過ぎったとたん、佐為は、”ぴしり”と重籐を、馬の尻へと打ち下ろした。 「下がれっ!!疾風!」 馬を早らせながら、再び叫んだ佐為の声も、今の疾風には届いてないようで、”だっ”と馬を駆りながら、佐為は ”すらり”と弓を携えた。 もう、獲物をやるしかないのだ。出来れば殺したくはなかった。森の奥へと追いやれば、それでよかったのだ。 だが、こうなっては、一矢で急所を射抜くしかなかった。何故なら、手負いの熊は、余りにも危険すぎるからだ。たとえ今、ここで疾風が助かったとしても、そのまま逃がせば、今度は人が襲われかねないのである。 そして何よりも―――、苦しめたくなかったのだ。 (許せ・・) 一瞬、佐為は目を閉じると、子の熊の姿を思った。 だが、佐為としては、疾風を失うわけには いかなかったのだ。 「疾風!動くな!!」 そう声を上げ、”ざっ!!”と背後に馬を走り込ませ、”ぴたり”と獲物を捉えたとたん、 佐為の その美しい顔から、 ”さっ”と血の気が失われた―――。 「そなた!」 鋭い声を上げた瞬間―――、 高い澄んだ弦音と共に、 引き放った白羽の矢が、天空を貫いた。 その矢先が捕らえたものが、水干姿の少年と見て取るなり、咄嗟に それを逸らせたのだ。 ”だっ!”と ばかりに駆け抜けて、”ぐっ”と強く手綱を引くと、馬の歩を緩め、佐為は鮮やかな手捌きで馬首を ”くるり”と廻らせた。 「疾風!もう良い。ここへ来い。」 まだなお、威嚇の唸り声を上げる疾風に そう声を掛け、”ふわり”と狩衣を揺らして、”とん”と軽やかな身ごなしで、佐為は馬を下り立つと、 「疾風!」 再び名を呼んだ、その叱咤するような声色に、疾風は ”ぴくん”と小さく体を強張らせると、憑き物でも落ちたように、”ぴょこん”と耳を立て、”くるり”と尾を巻いて、”たっ”と佐為の足元に走り寄ると、”ちょこん”と腰を下ろした。 「疾風、そなたは、ここで待て。」 そう命じると、笑ったように目を細め、「くーん」と伸びをした疾風の頭を、佐為は軽く撫でると、弓を馬の背に預け、”するり”と箙を下ろして、先程の雑木の群へと ゆっくりと歩み寄った。 その群の傍には、疾風に投げ付けたのか、一把ほどの柴木が、まるで錦絵のように散り積もった紅葉の上に散乱しており、踏み付けた小枝が ”ぱしり”と音を立てると、その雑木の奥で微かに身動ぐ気配がした。 「恐れることはない。何もしないよ。」 そう声を掛け、その奥を覗き込むように、佐為は 紅く綺麗に色付いた枝先を、”そっ”と指先で払い除けると、 「そなた―――」 そう、少し驚いたように声を上げた。 その群の奥で、怯えたように竦んでいたのは―――、 水干姿の異形の者・・・、 見上げる瞳は、銀の青―――。 佐為に負けず劣らずの、 綺麗な―――少年のようである。 「異国の者か―――。」 その金色の波打つ髪と、 ―――青味がかった薄墨の瞳・・・。 そして、何より目を引くのは、 亜麻色の艶やかな肌―――。 「柴木に髪が絡まったか。」 どうやら突然、犬に吼えられて、慌てて雑木を抜けようとして、その ”ふわり”とした長い巻き毛が、枝に絡み取られてしまったようである。 怯えたように身を竦ませる少年を、佐為は驚かさぬよう ”そっ”と手を伸ばすと、 「悪かったな、私の犬が驚かせてしまった。少し大人しくしていろ、私が髪を解いてやろう。 ―――とは言え・・・、言葉は わからぬか。」 そう、呟くように声を掛け、髪が絡まる枝先を、その 長い指先で摘み取り、美しい髪を傷めぬよう一房ずつ丁寧に解きほどいた。 (一体、どこの召仕なのだろう。) ”ふ”と、佐為は思った。 下僕にしては、良い身形である。 さして上等ではないとは言え、金の髪に良く映える、薄い梔子色の丸い唐花模様が可愛い 萌黄色の水干は、なえやかな練絹である。 そして、その衣からは、先程から ほのかに甘い花のような芳香が薫っているのだ。 (そう言えば、確か この辺りには―――) そう、思い当たったとき・・・、 「あなた、見掛けによらず、結構不躾だね。」 そう、つっけんどんに口を開き、薄墨色の瞳が ”ぴたり”と佐為を睨み付けた。 どうやら あれこれ思い巡らせている間、物珍しさも手伝って、”まじまじ”見入ってしまったのが、お気に召さなかったようである。 「そなた・・」 そう呟いて、佐為は、一瞬、意外気な顔をすると、 「これは、申し訳ないな。 だが、あの堅物で名の知れた民部少輔 雅隆殿が、こんな山奥に、これほど綺麗な童部を囲っていたとは、まこと 人とは見掛けでは判らぬものだな。」 そう、可笑しげに ”くすり”と苦笑をした。 「あなた、あの人を知っているの?」 そう問うたとたん、佐為を見上げる瞳の奥が、”ふわり”と和らいだようである。 「いや、知っているとは言えないな。たまに内裏でお見受けするくらいだから。 ・・・とりあえず、そこから出ないか。 ―――私は、佐為。藤原佐為だ。」 そう、掌を差し出して、いつもの穏やかな声が促すと・・・、 ”かさり”と小さく身動いで、 「私の名は、シャハラザード・・・。 あの人は、 沙羅と呼んでいる―――。」 ”ふわり”と金の髪が揺れて、 薄墨色の瞳が、佐為を見上げた。 |
素材:十五夜様