−想い 四− |
とたとたとた・・・ しゃ・・・ しゃ・・・ら 沙羅・・・ (あの人が・・・呼んでる・・・。 私の大好きな・・・、 少し低い、耳触の良い優しい声で―――。 私は・・・、 私は―――、ここにいる・・・。 ずっと、あなたを―――・・・いるの。) 「沙羅・・・、大丈夫か?」 ”ぽっかり”と、その薄墨色の瞳を開けると、”ほっ”としたように、温かな眼差しが沙羅の顔を覗き込んだ。 頬の辺りは、さすがに やや張りを失っているとは言え、年齢より かなり若く見える。 昔は、若い女官らに結構もてはやされたのではないのだろうか、くっきりとした優しげな目元と鼻梁の通った面長な顔立ちに、綺麗に整えられた口髭が、とても良く似合っている。 「どうして・・・」 力ない声で、沙羅が ”ぽつり”と尋ねると、 「里の者が気を利かせて、そなたの具合が悪そうだと、知らせに来てくれたのだよ。本当に良かった。あんなところで寝ていては、いくらなんでも体に障る。」 そう、雅隆は、汗で顔に張り付いた沙羅の金の髪を、優しく撫でるように、少し節くれた長い指先で ”そっ”と払い除けた。 (そう言えば・・・) 里の夫婦が帰った後、も一度 簾近くの板の間に、”ころん”と横になったのだ。 ”ひんやり”冷たい板の感触が、何だか とても心地よくて、日も傾いた夕暮れの中、真昼の熱気と比べて、まだ少しは涼しく感じられる風を、頬に感じながら目を閉じていると、”ふっ”と吸い込まれるように意識が遠のいたのだ。 ”とたとた”と朧げに聞こえていたのは、どうやら雅隆の急いた足音だったようである。 抱いて運んでくれたのか、いつの間にか、いつも寝ている褥の上に、薄い羅の衣を掛けて寝かされていた。 「何か口にした方が良いのだが、その様子では無理だな。」 そう言うと、傍らに手を伸ばし取り出したのは、一節ほどの竹筒である。 「暑気あたりだろうと聞いたから、薬湯を持ってきた。少し匂いは きついが、元気になるよ、我慢して お飲み。もう だいぶ冷めたから、まだ飲みやすいはずだ。」 雅隆は、沙羅がいつも使っている、白い兎模様が可愛い、小さな朱塗りの椀に、”とくとく”と茶褐色の液汁を注ぐと、”そっ”と赤子を抱くように沙羅の肩を抱え上げ、少し色を失った唇に当てて、「ほら。」と言うように それを飲むよう促した。 「ほら。」と言われても、そうそう飲めたものではない。 その煎じ薬 特有の、少し饐えた強い匂いに、沙羅は顔を顰めると、「嫌だ。」と言わんばかりに ”くるり”と顔を背け、雅隆の胸元に押し付けた。 「そんなの飲むくらいなら、死んだ方が ずっと ましだ。」 蘇芳の袿が薄く透けた、甘い花の香りがする ”さらさら”肌触りの良い 白い穀紗の狩衣に、沙羅が顔を埋めたまま、そう愚図る様子に、”くすり”と雅隆が吹き出した。 「そんなことを言わずに、ちゃんと お飲み。良い子だから、沙羅・・。」 小さな童部を あやすような、そんな雅隆の言い様に、何だか ちょっと腹が立って、もっと困らせたくなって、 「ねえ・・・。私が死んだら、あなた、泣く・・・?」 ”ぽつり”と沙羅が尋ねると、しばらく間が開いて、 「そなたが死んだら、・・・きっと涙は出ないよ。」 ”ことり”と椀を置いたのか、小さな音がすると、雅隆が穏やかに答えた。 「人はね、余りに悲しすぎると、涙は出ないのだよ。私はね、それを妻と娘を亡くしたときに初めて知った。 心がね、止まってしまうのだ。泣くことさえも、出来なくなるのだよ。」 雅隆が どんな顔をしているのか、”ちらり”と見上げた沙羅には、すっかり日も落ちて、残照さえ届かぬ部屋の中では、それを窺うことは出来なかった。 だが、その悲しげな声から、雅隆の顔が思い知れて、そんなことを聞いてしまったのが悔やまれたのと同時に、それほどまでに喪った人を愛していたのかと思うと、何だか ひどく妬ましくて、沙羅は尚も ”きゅっ”と強く、しがみ付くように雅隆の胸に顔を埋めた。 「沙羅、どうした、そなたらしくもない。そんな聞き分けのないことを言わず、ちゃんと飲んでおくれ。でなければ、無理にでも飲ませるしかないのだよ。」 ほとほと困り果てたような雅隆の言い様に、今度は沙羅が ”くすり”と笑ったようである。無理に飲ませる、などと言っても、そんなこと雅隆に絶対出来ないことが、沙羅には はっきり わかっているのだ。 「私に、それを飲ませるためだったら、あなた何でもする?」 雅隆の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で沙羅が尋ねた。 「いいよ、なんでもしてあげるよ。 そうだ、明日は、そなたの好きな揚げた餅を持ってきてやろう。この間、食べたいと、言っていたね。」 そう、”ほっ”としたように、明るい声で答えると、 小さく沙羅が身動いで、 「なら・・・、 あなたが私に飲ませて、 口移しでだよ―――」 薄墨色の瞳が、雅隆を見上げた。 ”とくん” 雅隆の鼓動が打ったのが、はっきり沙羅にも感じ取れた―――。 薄暮れた逢魔が時、 一瞬、周りの全てが止まったような気がした・・・。 「沙羅・・・、 いくらなんでも、大人を からかうものではないよ。」 ゆっくりと息を吐き、沙羅の顔を覗き込むと、少し嗄れた声で そう窘めた雅隆に、 「なら、飲まない。」 沙羅は又、”ぷい”と顔を背けると、その胸元に顔を埋めた。 どれくらい時が経ったのだろうか・・・、 困惑気な顔付きで沙羅を見下ろしたまま身動ぎ一つせぬ雅隆が、やがて徐に小さな朱塗りの椀に手を伸ばして、一口、中の薬湯を口に含むと―――、 身を預けるように顔を埋める沙羅の小さな頤を ”そっ”と上向かせ、驚いたように僅かに開いた唇に、ゆっくりと自分の それを重ね合わせた。 「ま・・」 そう、小さく名を呼びかけた口の中に、少しずつ流れ込んできた匂いの きつい汁液を、沙羅は訳の解らぬままに ”こくり”と飲み下した。不思議と苦味は感じなかった。 「残りは、一人で飲めるね。」 そう言って小さな椀を差し出すと、少し拗ねたように ”ぷい”と顔を背けた沙羅に、雅隆が小さく吐息を吐いて、椀に残った薬湯を もう一度 含み直すと、 それを見計らうように軽く目を閉じ、薄く口付けを せがむように開けた沙羅の唇に薬湯を流し込んだ。 ”こくり” 沙羅が素直に飲み下した。 それを確かめて解きかけた口内に、思いもかけぬ強い力に引き止められて、いきなり小さな舌先が差し入れられたのを、咄嗟に逸らせたものの、尚も乳を求める赤子のように懸命に追ってくる様子の いじらしさに、湧き上がる感情を抑えきれぬように―――、 雅隆は深く口を合わせ直すと、追い求める小さな舌先に自分の それを重ね合わせた。 「今夜は もう お休み、明日は元気になっているよ。 ―――風を送ってあげよう、ずっと そなたの傍にいるから・・・」 しばらく交わした口付けの後、そう沙羅に囁いた雅隆の声色が、どこか苦しげだったのに、沙羅は まるで気付いてなかった。 何だか すごく面映くて、体が ”かっ”と熱くなって、”どきどき”高鳴る胸の ときめきが、どうにも抑えられなくて、それを持余すように ”きゅっ”と強く雅隆の胸に顔を埋めていたのだ。 小さく答えるように ”こくり”と頷くと、”そっ”と褥に横たえてくれた雅隆の袖裾に、”ころり”と寝返りを打って ”おずおず”と手を伸ばし、顔を埋めるように引き寄せて、幸せそうに目を閉じた沙羅に、”ふわり”と衣を着せ掛けた優しい掌が、その艶やかな頬を撫でると、”さっ”と甘い花の香りが、沙羅の体を包み込んだ。 雅隆が、蝙蝠で風を送ってくれたのだ。 (あなたを、愛してる―――。 私は、ずっと・・・) 小さく沙羅が囁いた。 「とても―――、幸せだった・・・。 生まれて初めて人を好きになって、心から それを幸せだと、思えた。」 ”ぱちり”火が爆ぜた―――。 火櫃の炎が照らし出す、沙羅の顔の陰影が、”ゆらり”と悲しげに揺らめいた。 |
素材:十五夜様