−想い 伍− |
夜の帳が下ろされた仄暗い部屋の中、深々と忍び寄る晩秋の冷え込みも、赤々と燃え盛る火櫃の周りは思いの外暖かく、もう既に寝息を立てている疾風の小さな体の上に、外は真白い上弦の月が懸かっているのだろうか、蔀戸の隙間から漏れ差し込んだ月光が、まるで銀砂が舞い散るように優しく降り注いでいる。 訥々と話す沙羅の切ない想いの丈を―――、 佐為は身動ぎ一つせず ”じっ”と聞き入っていた。 「夜更けにね、ちょっと寝苦しくなって、”うとうと”まどろみかけたらね、”ふわり”と風が頬を撫でて、 『夜明けには、まだ早い。もう少し お休み、良い子だから、沙羅。』って、優しい声がして、暖かくて柔らかいものが、”そっ”と おでこに触れるとね、何だか とても安らいで、又 ”すとん”と寝てしまった。 朝、目覚めたら、もう雅隆の姿はなくて、代わりに白い槿の花に結わえられた置手紙があった。 朝一番で、参内しなくてはならなかったらしくて、その日、必ず様子を見に来るから、と認められていた。 真面目な雅隆が、夜も明けきらぬ中を転がるように山を下りて行ったのかと思うと、何だか可笑しくて、でも、すごく幸せだった。」 火櫃の炎を見つめたまま、沙羅は儚げに微笑むと、”ぱしぱし”と目を瞬かせ、幼げな仕草で目を拭った。 「雅隆と交わした口付けのことを思うとね、うれしいような、恥ずかしいような、一日、ずっと ”そわそわ”してね、全然落ち着かなかった。雅隆の姿が待ち遠しくて、何度も そこの木戸まで行って、あの人が現れるのを ずっと待ってた。 そろそろ日も傾きかけた頃、やっと木戸の向こうに姿が見えたとき、私は もう うれしくて、階を駆けて下りると、馬を降りて木戸をくぐった あの人に飛び付いていた。 でも―――、 でも・・・、雅隆は、一瞬 身を引くと、私の腕を剥がすように身を離して、 『余り はしゃぐと体に障る。今日も薬湯を持ってきた。もう一人で飲めるね、大丈夫だね。』 言い含めるように そう言うと、竹筒と小さな竹皮の包みを手渡して、『ちゃんと飲むんだよ、いいね、わかったね。』、そう念を押して、すぐに山を下りて行った・・・。 何が何だか わからなくてね、木戸まで追って名を呼んだ私の声にも、あの人は、一度も振り返らなかった―――」 その時の やるせなさが思い出されたのだろうか、沙羅は、不意に その美しい横顔を悲しげに歪めると、立膝に埋め、”きゅっ”と握った掌が小さく震えるのが、ひどく憐れに思えた。 「気が付いたら―――、 日は すっかり落ちててね、周りは真っ赤に染まってた。 ”とぼとぼ”部屋に戻って、簾の端近に座り込んで、前の日、雅隆が使った椀に薬湯を注いだ。 竹皮の包みを開けると、私の大好きな揚げた餅が入っててね、一つ摘まんで口に放り込んで、薬湯を一口飲んだ。 別に食べたかったわけじゃない。雅隆が ちゃんと飲めと言ったから、そうしたんだ。 でも、すごく苦くてね、ひどく咽て苦しかった。 そして・・・、悲しかった。 何故―――、そう思った。 どうしてなのだろう、そう思った。あんな風に素っ気無く あしらわれたのは初めてだった・・・。雅隆は、いつだって優しかった。 夏も終わる夕暮れ時、煩いくらいに虫が鳴いていた―――。 色んなことが巡っているようで、何にも考えてないようで、しばらく ”ぼーっ”と庭を眺めてた。 後悔してるんだ――― そう思った。薬湯を飲ませるためとは言え、私なんかと口付けしたのを、雅隆は後悔してるんだ・・・、そう思った。悲しかった。でも、不思議と涙は出なかった。 ―――人はね、余りに悲しすぎると、 涙は出ないのだよ・・・。 雅隆の言葉が蘇った―――」 沙羅が苦しげに目を閉じて、尚も強く顔を伏せると、小さく丸まるように膝を抱えた肩先から、波打つ金の髪が ”さらさら”と零れ落ちた。 揺らめく灯台の炎が照らす その様子は、まるで 月読壮士が櫂を漕ぐ星の河の流れようで・・・、 壮士の漕ぐ月舟は、 一体何処へ向かうのか―――。 美しい異国の人を、手許に置く男の心に、佐為は ”ふ”と思いを馳せた。 「―――雅隆は、前と変わらず優しいよ。」 沙羅は やがて、ゆっくりと顔を上げ、そう ”ぽつり”と呟くと、 「少し、ぎくしゃくしたけどね、私が何もかも忘れてしまえば良かった。何も なかったことにすれば、それで・・・良かった。 でも―――、 でもね・・・、 たまに雅隆の優しさが、辛くなることがある。 あの人の傍にいるだけで、苦しくなることがある・・・。 私には―――、 あの人が わからない・・・」 そう言って、膝の上に頤を乗せ、身動ぎ一つすることなく ” ちろちろ”燃える火櫃の炎を しばらく ”じっ”と見つめると、 「―――あなたの傍に寄ってもいい?」 不意に ”ふわり”と振り向いて、そう訊ねると、”ゆらり”と立ち上がり、佐為の傍らに近寄って、”すとん”と落ちるように腰を下ろし、”とん”と 倒れ込むように その胸元に顔を埋めた。 「あなたも良い匂いがするね。雅隆とは、又 違った匂いだ。 でも―――なんだか心が落ち着く・・・」 沙羅は ”そっ”と目を閉じて、思うより尚広い 佐為の背中に腕を回すと、 「私を抱いてくれないか―――」 小さな声で囁いて、”ふわり”と佐為を仰ぎ見た美しい顔が―――、 「それとも、やっぱり あなたも嫌か・・・。自ら体を売るような、女を抱くのは――― あなたも嫌か。」 ―――”ゆらり”と悲しげに揺らめいた。 薄闇に炎が照らす、 寄り添いあう二つの姿は・・・、 まるで切り取られた絵のように、 束の間、その時を止め―――、 やがて・・・、 滑るような黒髪が、 ”さらり”と揺れて帳を下ろすと、 その深い懐に、華奢な体を抱き寄せた―――。 「自ら我が身を卑しむような、悲しいことを口にするものではない。」 いつもの穏やかな声が、そう優しく窘めると、 「そなたのことを、そのように思ってなどいやしないよ。 だがね・・、今 私に抱かれれば、いずれ そなたは後悔をする。大切な物を見失っては いけないよ。そなたの想いは、きっと届く。私を信じてくれないか―――」 ”ふわり”と包み込むように、沙羅の顔を覗き込むと、丸みを帯びた柔らかな肩先を、佐為は ”そっ”と抱きしめた。 「本当に?」 小さく身動いで佐為を見上げた沙羅の瞳が、一瞬 濡れたように揺らめくと、 「―――本当に、私の願いは届くのか・・・?」 少しくぐもる小さな声で、も一度 そう訊ねるなり、”ぽろり”と溢れた涙の珠が、一粒 頬を流れ落ちた。 「きっとだよ、きっと そなたの願いは届く・・。 それにね、私にもね、大切なものはあるのだよ。」 そう言うと、沙羅は ”こくり”と頷いて、佐為の胸に顔を押し当てると、 「うん、うん」と言うように何度も小さく頷いた。 ずっと張り詰めていた心が、その一言で随分和らいだのだろうか、いつの間にか沙羅は、しゃくり上げて泣いていた。 「泣いてくれるな。」とは、言えなかった。 寄る辺のない この異国の地で、ずっと、一人辛く苦しい思いをしてきたのだろう、と思うと、「泣くな」とは言えなかったのだ。 佐為は、尚も強く 震える肩を抱きしめると、やがて沙羅が泣きつかれて、腕の中で眠りに付くまで ずっと そうしていたのだ。 そして翌日・・・、 佐為は気だるい朝を迎えることとなる―――。 「・・ん・!・ぁ・ん・・・」 「は・・、・・・・・で・・」 遠く おぼろげに聞こえていた声が、やがて・・・ 「わん!!」 「あはははは・・! 疾風、ほら、こっちだよ!おいで!!」 弾けるような笑い声と、楽しげな鳴き声となり、 その意識を瞬く間に呼び戻すと―――、 佐為が、”ふわり”と目を開いた。 だが、まだ はっきりと覚めやらぬのか、もう一度 気だるげに目を閉じると、深く息を吐き、ゆっくりと仰向いて体を起こすと、”さらさら”と顔に降り掛かる張りのある艶やかな髪を、煩げに掻き上げた。 一体、何時なのだろうか―――。 結局、昨夜は、泣き疲れて寝入った沙羅を寝かし付けてから床に就いたのだが、切なげに しゃくる声が耳に付いて、明け方近くまで寝付けなかったのだ。 部屋の中は、長押まで垂れた帳が、陽の光を遮って まだ薄暗い。 だが、聞こえてくる鳥の声や、沙羅の声の様子からすると、もう すっかり外は明けているようである。 佐為は、几帳代わりに立て掛けた衣桁に掛けた狩衣を、”ふわり”と肩に羽織ると、烏帽子も被らぬままに、簾をくぐり抜けた。 廂には、まだ蔀戸が立てられたままである。 どうやら、佐為を気遣って、あえて上げてないようである。 陽射しの届かぬ板間に立つと、さすがに ”ひやり”と冷たくて、”冴え冴え”とした山の冷気に、佐為は羽織った衣の袖に ”するり”と腕を通すと、そこにだけ煌くような陽が差し込んでいる、開け放たれた妻戸へと ゆっくりと歩み寄った。 「おはよー!」 眩しげに目を細め、佐為が妻戸をくぐるなり、降り注ぐ日よりもなお明るく輝く満面の笑みが、大きく声を上げると、”たっ”と駆け寄った。 思い切り泣いたことで、すっかり心が和らいだのか、一体、明け方近くまで寝付けなかったのは、何の所為だったのだろう、と思わせるような沙羅の笑顔は、生き生きとして可愛らしく、佐為は小さく頷くと、”くすり”と苦笑いをした。 沙羅は、階の袂まで来ると、”ひょい”と佐為を見上げ、小さな声で はにかみながら 「ありがと。」と、一言告げると、やはり少し気恥ずかしいのか、 「あのね、今、疾風と遊んでた。疾風は、とっても賢いね。ちゃんとね、私が投げた小枝を拾ってくるんだよ。」 と、少し大きく声を上げると、”すとん”と腰を下ろし、”ちょこん”と一緒に並んで座った疾風の頭を、”くるり”と撫でた。 「ふうん、それは良かったな、疾風の方も喜んでるよ。こんな朝早くから、相手をしてもらうことなど、滅多にないことだからな。」 そう ”ふわり”と微笑んで、”とん”と佐為が階を降りると、 「わん!」 と、疾風が応えるように うれしげに、”ぱたぱた”と千切れんばかりに尾を振った。 「ねえ、いーい?ちょっと見ててね。」 沙羅は得意げな顔で そう言うと、”すっく”と立ち上がり、”くるり”と後ろを振り向いて、 「疾風!持っておいで!!」 大きく声を上げ、空に小枝を放った時・・・、 「佐為殿!!」 弾むような嬉しげな、 大きな声が木戸から上がった―――。 |
素材:十五夜様