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そのころ―――

当主に暇を乞い、牛車に乗り込もうとしたとき、凛としたすがしい若い女の声が聞こえたようだった。少し先の生垣の向こう側の根元あたりから聞こえてくる。
普段の憧憬しょうけいを込めた溜息や歓呼ならば気にも留めなかったであろうが、それが叱咤するような、争うような様子が気になって、つい覗き込んだのだった。



「ほう・・・そなた先日の巫女殿ではないか・・・。」
突然、声をかけてきたその男と目が合った。
「!」
立ち上がった葉月が息を呑み、目を見開いて見上げていたのは、
―――“藤原佐為”その人であった。

先日は気づかなかったが、この男かなり大きい。屈強な近衛にも背の高さでは見劣りしない葉月より、ほぼ頭ひとつ抜き出ている。生垣をはさんで覗き込み、その麗美な切れ長の目を細め、艶然と微笑む様子は、確かになまめかしい。

「このような所で、何をしている!!」
葉月は、先ほど、突然頭の上から降ってきた佐為の声に驚き、年相応の少女のように葉月の陰に隠れてしがみつく、埜依姫をかばいながら少し退き、挑むように言い放った。

「これはしたり・・・。なれど、それを聞きたいのは私のほう。」
佐為は顔を少しかしげ、さっき姫が覗いていた生垣に開いた小さな隙間を“ちらり”と見遣り、優雅な笑顔を葉月に向けた。

葉月は言葉につまり、口端を噛んだ。そりゃそうである。とてもじゃないが、目の前の人物を覗き見しようとしていたなんて事は、口が避けても言えるわけはなかった。まして、そのからかうような言い様が気に障る。

佐為は、嫌忌けんきあらわに、立ち尽くす葉月を面白そうに見ていたが、ふと、葉月の濃色こきいろの袴の影に隠れ、あふれんばかりの好奇心をたたえたくるくるとした目を、自身に向ける少女の姿に気がついた。

「そなた、此方の姫君 埜依姫様か。」
優美な目を細め、優しげに微笑む佐為が声をかけた。
少女は、“びくり”と体を震わすと、恥ずかしげに袴に身を隠す。
「父君殿が自慢されるだけあって、ほんにかわいらしい姫君であられる。」
そう、言い終わるまもなく、
「失礼ながら、婚期に達したとはいえ、姫はまだ子供。手出しなさるのは、私が許しませぬ!」
と、葉月がはねつけた。

見開かれた意志の強さを感じさせる黒目がちの大きな瞳、そして印象的な冬椿を思わす引き結ばれた赤い唇・・・気高さすら感じさせる凛とした張りのある声。

少し驚いた様子の佐為だったが、こみ上げるおかしさにたまらぬように、「くくく・・・」と声をあげて笑う。

「なっ・・・なにが可笑しい!」
葉月の顔が屈辱で赤らむ。
「私とて、まだ芽吹かぬ花を愛でるつもりもありませぬ。なれど、咲き誇る酔芙蓉さえ恥じ入るような美しい巫女殿なれば、喜んでお手合わせ願おうか。」
そう言うと、広げた檜扇を鼻先に当て、艶めくその目を葉月にてた。

さすがに葉月もここに来てキレた。手の中にあったそれを、思い切り佐為めがけて投げつける。
その美しい顔面に的中した・・・と思われたその瞬間、心持ち体を引き、“ぱしり”と、優雅な動きで手平に受け止めた。

顔色ひとつ変えぬ佐為を睨み付け、羞恥に染まるその顔を打ち捨てるように背けた葉月は、“くるり”と身をひるがえし、
「このような男、相手になどなされてはなりません。」
と言い捨てると、足早にその場を立ち去る。

「葉月、待て!」
と、はたたく葉月の袴を掴もうとした埜依姫は、優しげに見つめる貴人に、にっこりと微笑むとあわてて葉月の後を追った。

「―――はづき・・・。
美しいが負けん気の強い巫女がいるとは聞いていたが。あれが、橘葉月か・・・?」
そう呟くと、佐為は手の平のそれを見た。
「貝合わせでもしていたか―――。」
そう、佐為の手のひらには、鮮やかな赤い椿の絵の描かれた美しい貝殻が“ころん”と乗っていた。



母屋へ戻った葉月は、目の前の色とりどりの貝殻の前で、ずっと押し黙ったままであった。
「葉月・・・。すまぬ。」
埜依姫が、おずおずと迷った子犬の目で葉月を見上げる。
その声に“ふと”葉月は我に返ると、
「もう、姫もお年頃ゆえ、あまりお転婆てんばな真似はお止め下さい。」
と、やさしく諭すように言う。
「うん。わかった。」
判ってくれたかどうか、少し怪しい気もするが、“ほっ”とした様で無邪気に笑う姫を見て、葉月も微笑む。

(しかし、どうしたものか・・・)
内心、葉月は別のことに気をとられていた。目の前の美しい貝あわせの貝・・・。そのひとつを、あの男に投げつけてきてしまったのだった。
(仕方ない。あるかどうかわからぬが確かめに行こうか・・・。)
そう思い立ち、姫には言い聞かせて部屋に残らせ、先ほどの生垣まで立ち戻った。

(さて、あの貝はどうなったのだろうか・・・。)
そう思い巡らしながら、“ふと”目を遣ると、平らに切りそろえられた生垣の上に、赤く染まった酔芙蓉が一枝置かれてあった。惹かれるように近づくと、その傍らに、薄紫の懐紙に載せられた貝が置かれている。

(あの男、一体何を考えているのだろう・・・。)
“はぁ・・・”とため息をつき、懐紙ごと貝を手にすると、あの日のくゆりが立ちのぼる。少しためらわれたが、懐紙を開き目を通した。流れるような風雅な男文字であった・・・が・・・。

「あの男、からかっているのか。この私を!」
“かっ”と頬を紅潮させた葉月が声を荒げ、いきなりそれを引き裂いた。

そう、それには、
   
と、書かれていたのだった。



そのふみが、そうなることが一番良くわかっていたのは、当の佐為だったようだ。なぜなら、その頃、帰りの牛車の中で、それを読んだ葉月の姿を思い浮かべ、込み上げる笑いをひとり押し殺していたからだ。

そう、確かに葉月は佐為にからかわれているようである・・・。(いやはや・・・)


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