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「父上・・・。」 ―――葉月の父、当神社の神司 橘清直である。 重厚で穏やかなその風貌と身に着けた白地に藤の丸紋が織り込まれた袴が相まって、優れた人柄であることが窺い知れる。年齢を感じさせないその見事な体躯は、長身の佐為にも見劣りしない。いや、その頑強な様は、若い佐為をも凌ぐようにも思わせる。だが、その言いようは限りなく柔らかである。 「おお、こんなところにおられたか。あんまりに、遅いので、探しに参りましたぞ。」 そう佐為に、清直が言葉を掛けた。 ―――突然の展開に、葉月が狼狽する。 「父上、一体・・・。」 「ちょうどいい、御前も探していたのだ。後で、酒席ひとつも用意するよう、手配りしておいてくれぬか。」 父の喜色満面のその様子に、葉月はなおも慌てふためいた。 「は!?この男が、父上の客と申されるのか?」 腑に落ちぬ様子の葉月に、合点したか、 「おお、そうか。御前にはまだ、言っておらなかったか。昨日、突然佐為殿から手合いの申し出があり、あまりに嬉しゅうて、早速今日来ていただいたのだ。」 「はぁ?」 葉月の口から、思わず調子はずれの声が出た。 確かに葉月の父 清直は碁の妙手であった。先の帝に碁を教授していたのは、この清直である。 だが、あくまでも過去形である。先の帝が崩御した後、その任を辞し、今では近辺に住む官僚たちの幼い子弟に碁を教えると言う、ほとんど趣味に近いものである。 (その父に、藤原佐為が手合いを申し込んだ?) 怪訝な顔をして、傍らに佇む佐為を見上げた。 それに気づいたのか、 「左大臣殿から、父上がかなりの碁の名手と聞き及んだ。修練し、腕に覚えのある技量ならば、そうやすやすと力は劣らぬもの。ぜひ、御手並みを拝見させていただこうと、無理を承知で願い出た。」 佐為は、葉月を見返すと、静やかな声音でそう告げた。 「いやはや、佐為殿にそう言って頂けるとは、感無量。ささ、早ようこちらへおいでなされませ。」 満面の笑みを浮かべた清直が、客居の方へ佐為を誘う。 「おお、葉月。酒席の手配が整ったならば、御前もぜひこの一局観ておくがいい。いくら、子達相手といえ、教えるからには御前も精進せねばなぁ」 「し・・しかし・・・父上・・・」 葉月はそう言いかけて、続く言葉を飲み込んだ。父のこれほどうれしそうな顔を見るのは、久しぶりである。さすがに、そんな父親に葉月は否とは言えなかったのである。 閑静な室内からは、時折石を打つ微かな音だけが響く。 酒席の手配を済ませた葉月は、その心地よい韻律に障らぬよう、端近に腰を下ろした。 まだ青みの残る空の片隅で、陽が山に隠れると、暮色が薄雲を紅色に染め、陰影がその輪郭を色濃く模り始める―――。 暮方の色あせた光が差し込む室内は、襖障子で仕切られており、そこに置かれている調度品の数々は、たいそう古いものではあるが、よく手入れの行き届いた美しく見事なものばかりである。 棊局を挟み、対にして畳を敷き、清直と佐為が碁を打つ。 ―――その棊局と碁子を見て、葉月は驚いた。 紫檀の棊局には、優雅な脚が付き、四面には見事な細工が施された美しい代物である。そしてその昔、天竺という国から伝わったと言う牙角の碁子は、もともとの淡い黄白色のものと、黒に近い紺色に染められたもので、これまた巧みな彫り物が施されている。 代々伝わるそれらは、父がもっとも大切にしているものである。それを、わざわざ具備したとは、藤原佐為の申し出が、よほど嬉しかったのだろうか。 そんな父の心が窺い知れて、葉月の口元が自ずと綻んだ。 ―――手練手管で、女を弄し――― “ふと”葉月の眉が曇った。―――。 (無礼を詫びるべきは、私の方か・・・) さすがに、気持ちが落ち着くと、それが暴言であったと思い返された。 そこまで届ききらない淡い光の陰影が、その優美とも言える端正な顔立ちを引き立たせ、翠なす純黒の髪を、なおいっそう艶やかに際立たせる。 普段の戯れたような顔つきは失せ、この男の癖なのか、整った口元に扇を当て、清雅な眼差しを盤面に注いでいる。 ―――十九路の盤面は、一年を表すと、昔父が教えてくれた。 ―――ふと、葉月はそんなことを思い出す。 ―――一局一局を重ね往くのは、時の流れに身を賭すにも似るものか。十年・・百年・・一千年、そして劫へと流れる十九路の時(とき)の中に、この男の双眼は一体何を見ているのだろうか―――。 「ふむ・・・」 清直はそう小さく息を吐いた。その気配に、葉月は我に返った。 ―――紫檀の棊局の上に交錯する碁子の数を見れば、すでにその対局が終盤に差し掛かっていることが窺い知れた。 ここにきて、碁笥に伸びた清直の手が止ったのだ。盤面を見定めながら、ゆっくりと腕を組んだ。 (先の手と言い、今の手と言い、この男なかなか生きが洒落ておる。) そう思い巡らせると、目の前の凛然と対座する若者に目を移した。 ―――その迷い無き流麗な石の流れに澱みなく、白い優雅な指先が、琴線の音色のような言の葉を紡ぎ出す―――。 中盤までは、互角。いや、上辺はほとんど白地が占め、清直が有利であったはずだった。だが、いつのまにかその盤上は、下辺の折衝で黒が盛り返し、形勢不明となっていた。 そこに、先ほどの鮮やかな手筋である。抵抗の余地は見当たらない。 (こちらの薄みを睨んだ上の、綽さがりとは、これまた急所をつかれたものだな。) 「負けましたな。」 清直は、満足げに微笑むと佐為にそう告げた。 |